第13回・・・MIND THE GAP(2)

日英「クイズ文化」考


前回紹介した「ミリオネア」の本以外にも、ロンドンの本屋ではたくさんのクイズ本(カセットブックもあった)を見つけることができた。いずれの店でも、クイズ本は「SPORTS」のコーナーの中の「INNER GAMES」のカテゴリーにあったことは興味深い事実だった。
イギリスにおけるクイズの在り方を説明するのには、私が買ったあるクイズ本の書き出しが最適だろう(下手な訳ですいません)。

そういえば、「ミリオネア」は本だけでなく、ボードゲームやアーケードゲームになっていた。また、玩具店にはクイズゲーム用の「追加問題集」が売られていた。パブの「クイズリーグ」というのは(おそらく)、統一ルール、統一問題を使用して全国規模で行われるクイズ大会であり、本屋のクイズ本には「クイズリーグ」がらみのものが多かった。「クイズが人気」というのは本当なのだろう。生活の中にクイズ自体を楽しむための場があり、人々は勝敗に関係なくクイズを楽しむ。そのことがイギリスのクイズ文化の特徴といえる。
それを反映してか、確かにテレビのクイズ番組もかなりある。面白かったのは夕方の帯番組である「Fifteen to One」や「One to Win」、やはり夕方放送の3択クイズ「100%」、ゴールデンタイム放送でビジュアル・サウンド問題もある大学対抗戦「University Challenge」(クイズサークルはイギリスの大学にもあるが、彼らはこの番組の対策用問題を出場者に提供しているらしい)あたりか。これらの番組の共通点は、30分ほとんどクイズ出しっぱなしということである。出場者は簡単な自己紹介をする程度。勝利者に商品があるのかないのかも定かではないくらい、とにかくクイズが続く。これが私には新鮮に映った。クイズ自体をテンポ良く見せる(聞かせる)だけで番組が成り立つというのは、やはり「クイズ自体を楽しむという文化」の賜物なのだろうな、と思ったものである。

そんなイギリス人には逆に「ミリオネア」が新鮮だったのではないだろうか。普段楽しんでいるクイズ、高額賞金がもらえることへの驚き。少ない問題数と無制限のシンキング・タイムで、解答者のキャラクターや心理を前面に出させる演出。それにより視聴者は、普段同じようにクイズを楽しむ仲間としての解答者にいつの間にか感情移入し、正解を重ね賞金額が上がる毎に熱狂するのではないか。それが人気の秘密ではないか。

 

さて、日本に目を転じてみよう。わが国初のクイズ番組は、昭和21年にアメリカのクイズ番組の日本版として誕生した「話の泉」である。このことは、とても重要な事実を示すものである。日本でラジオの本放送が始まったのは大正14年。以来20年以上、アメリカから持ちこまれるまで、クイズ番組は存在しなかったということなのだ。それは、「話の泉」以前に日本には「クイズ」という遊び自体が存在しなかった、ということではないだろうか。そしてその後も日本では生活の中にクイズを楽しむ場が存在しないまま、クイズ番組のみが存在していく。日本のクイズ文化は「クイズ番組文化」と呼ぶべきものである。

クイズ番組で長きにわたり主流となったのが、勝利者への豪華なプレゼントをウリにした視聴者参加クイズである。日本でのクイズ、高額賞金・商品がもらえることが前提だったのだ。当然勝つことが重要となり、そのためには答を「知っている」だけでは不十分として、答を覚えたり調べたり予想したりする人間が出てくる(この流れは「クイズ研究会」を生み、現在に至る)。
その上で視聴者は、解答者とテレビの前で擬似勝負を行う。クイズ番組が唯一のクイズの場であるから、解答者との仲間意識は存在しない。それどころか、自分の欲しい賞金・商品を持ち去る敵なのである。この勝負は空しいものだ。解答者が自分より上なら悔しいし、自分が解答者より上なら「本当なら自分が賞金・商品を獲得できたのに」となる。しかし、こうした両者の関係をベースに、日本のクイズ番組はその特徴を強めていく。

1つは「ゲーム性の強化」である。必ずしも正解の多い人が勝てないルールを設定することは、解答者と視聴者の間(もちろん解答者間もだが)のクイズ自体での勝負から、番組としてのスリリングな展開に重点をスライドさせることに成功した。「三枝の国盗りゲーム」や「アタック25」はその典型といえる。
もう1つは「解答者へのペナルティ」だ。敵としての解答者の恥ずかしい姿を、視聴者は安全な立場から眺めることである種の優越感にひたる。「ウルトラ」の「罰ゲーム」は言うまでもないが、ゴンドラが落ちたり、イスが回ったり、立たされたり(これは年を重ねる毎に屈辱的に思えてくる)・・・。ついには解答者が自身の恥の部分をカミングアウトし、それに対して賞金を設定するという所まで行きつくことになる(「悪魔のささやき」は90年代で最も成功した視聴者参加クイズ番組である)。

このように日本では、クイズ番組はクイズ自体よりも番組としての面白さを追い求める必要があり、様々に趣向をこらした番組ができていった。その結果、クイズ番組の中心は一般視聴者からタレント、あるいは特定の分野の「オタク」と見なされる人達(「カルトQ」がそう。あと一連の「クイズ王番組」も「クイズ」というジャンルでの「カルトQ」だったのでは、という気がする)にスライドしていき、もともとの高額賞金・商品を争うという形式はほぼ消滅した。

そんな国のそんな状況下での「ミリオネア」である。多くの視聴者は「昔の形態の視聴者参加クイズ番組が帰ってきた」という意識でいる。そのために、かつての面白かったクイズ番組との比較を行なってしまう。曰く「ミスターロンリーに似てる」だの「タイムショックの方がテンポがあった」だのと。上記の日英の違いを考えると、仕方のないことではあるが、あまりそうした比較はせずに楽しんだほうが良い(ただ、昔を知らない高校生以下の若い世代には新鮮だろうから、彼らをターゲットにした方が良いかもしれない。あの時間帯は裏に彼ら向けの番組がないし。そのためにも、問題は今の質を保てば悪くないと思う。ともかく、彼らの番組に対する反応には興味があるし、期待が持てる)。
また、未だに普通の生活の中にクイズを楽しむ場はないため(「トリビアル・パスート」も根づかなかった。)、解答者は敵でしかない。賞金が「人生を変えるかも知れない額(といっても司会者の推定年収の26分の1だが)」なら、なおさらのこと。で、「あんな問題で間違えやがって」とか「俺なら500万は余裕だ」とか「間違ったら車でも手放せ(これは私の意見)」という声があがってくる。

「ミリオネア」が面白くないとすれば、それは「ミリオネア」自体の問題ではなく、「ミリオネア」を楽しめないあなた達と私自身、そしてイギリス的なクイズ文化のないこの国が問題なのである。では、クイズ自体を楽しむことは日本人には不可能なのか?その答がNOであることを、私自身とアンケートを書いてくれた皆さんは知っている。次回、アンケート結果の分析と合わせて、その辺の話をしたい。

 

 

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