第21回・・・「クイズ番組」を語る・その2
- ・・・言ったじゃない、「絶対、日本ではできない」って。結局、「ミリオネアが当たったから、今度はウィーケストリンクだろう」ぐらいの甘い判断で無駄な買い物をしたってことでしょう。何がやりたいのか、最後までわからなかったし。
- 芸能人大会で「暴露」や「醜い争い」を見せるのは構わないけど、それだと他のバラエティと比べて「クイズ」の部分が足枷になるってことには気づかなかったんだろうか?「クイズ」の内容自体を「暴露ネタ」にした、とんねるずによる同番組のパロディ版の方がはるかに面白かったことからも、それは明らか。
- 要するに、クイズ番組を最近のバラエティ番組のようにテコ入れしようとしてもダメってこと。つーか、「クイズ番組」が「バラエティ番組」の1ジャンルになっていること、「バラエティ番組」の人間が「クイズ番組」を手掛けることから疑問に思わなければいけないように思う。
- 期待していた「テンポ良く問題を出し続ける」という部分も、どんどんひどくなっていった。人名を答えさせる問題文にいちいち「フルネームは」って入れるようになってきてたし。全く、「余計な入れ知恵をしたのは一体誰なんでしょうか?」(伊東四朗風に。伊東さんは頑張っていたと思う。)
- 「クイズ自体には、まだ力がある。」とは、「タイムショック21」開始時のプロデューサー(確か)の言葉である。で、実際は視聴率が伸びず、貧乏エピソードに頼り、(中途半端な)芸能人に頼り、「クイズ王(という肩書き)」に頼り、そして消えて行った。
- 結局、「ミリオネアが当たったから、今回こそはタイムショックだろう」ぐらいの甘い判断で再度復活させたってことでしょう(ということは、また甘い判断で復活する可能性もあるわけだが)。
- クイズ自体は、まだ力を持ったことがないのです、この国では。
- 上記2番組の終了によって、クイズ自体はもちろん、「高額賞金」、「(中途半端な)芸能人」、「クイズ王(という肩書き)」といった要素にも力がないということがはっきりしてしまったことを厳粛に受け止めるべきでしょう。
- 結局、ミリオネアが当たったのは、「みのもんた」という強烈なパーソナリティーの力が番組に上手くはまったからに過ぎないのです。あと付け加えるとしたら、大物芸能人・著名人が出ていること。まあ、人気番組だからこそサブちゃんや都知事を引っ張ってこれるのでしょうが。
- ウルトラクイズが来年遂に復活!!出場者は吉本興業の全タレント!! ってことになったら、どんな反応が起こるんだろうか?中途半端じゃないタレントが勝ち残れば、素人が出るよりは間違い無く面白くなる、と私は思うが。
- 「『ウルトラ』は素人が人生を変えるのが云々・・・」という批判は容易に推測できる。が、その裏には「自分が出て勝ちたい」という本心が絶対にある。「『ウィーケストリンク』や『タイムショック21』を終わらせるな!」という主張の裏にもそれは同様に見え隠れしていた。
- でも、「自分が勝ちたい」と思ってるのは自分だけだし、「自分達が活躍すべきだ」と思ってるのは自分達だけ。勝ったとして盛り上がるのは自分や自分達の周辺だけ。それだけでは「番組」として成り立つはずがない。
- そりゃ私も一通り有名どころが出尽くしたら「タイムショック21」に挑戦しようと思ってたさ!勝てなかったろうけど「ウィーケストリンク」も出てみたかったさ!「アタック25」は永遠に続いて欲しいさ!いつ「ウルトラ」が復活してもいいようにたっぷり有給休暇残してるさ!
- だけど、(本当に番組に出るという意味での)「参加者目線」でクイズ番組を見てる人はほんの一握り。ウルトラは「参加者目線」でいる「自分」と「自分達」が最も多く集まる場所になるだろうが、それでも応募するのは10万人ってとこでしょう。たかが10万人のために復活することは考えられない。
- 「参加者目線」でクイズに関して語っても、まるで説得力がないのだ。それは結局、「自分」に利益がもたらされないことへの不満に過ぎない。
- 「参加者目線」だから、クイズを論じているつもりでも、結局「自分達」の中の問題を論じているだけで、その区別すらつかないことが多いのだ。
- 客観的に、冷静に、「視聴者目線」でクイズを見ることもしていかなければ、「自分」や「自分達」はどんどん浮いた存在になる。その自覚は必要だと最近また強く感じている。
- 高校生クイズは本来(高校を出たら「参加者」には絶対になれないので)、最も客観視できる番組のはずだが、こうも「擬似ウルトラ」になってしまうとなかなか難しい。かく言う私も成田のジャンケンで思いっきりダマされてたし。
- で、気になる点。今年って「決勝は海外」というのを予選前から言ってたんですよね。で、4万人ちょっとの参加者・・・。これももはや一握りの「参加者目線」の高校生向けのものになってしまってるのかと思ってしまう。
- ただ、今年の番組の内容(特にオーストラリア全般)は「視聴者」として面白く感じた。が、それは「擬似ウルトラ」だったからかも知れない。当事者である高校生が「視聴者」から「(イベントとしての)参加者」への意欲を持ったかどうかが大事なところだ。
- 視聴率は私が大嫌いなドラマの再放送(倉本總は認めない)のおかげで低かったと聞くが、もう一度はチャンスを与えて欲しいと思う。来年も「海外」を事前にPRし、参加者が今年より減ってたら即終了っていうのはどうだろうか。日テレらしくて良いのでは?
- 決勝で(自然に)応援してた広島学院の子が「自信を持って押しに行けなかった」旨の発言を何度かしていた。情報の格差は問題を単純化、軟化させることで埋まるが、この「ハヤオシ・ディバイド」は経験値を積まないとなかなか埋まらない、これが早押しの限界だろう。
- ただ、「キワモノを見せる道具」として、早押しは最も効果的な手段であり続ける、とは思う(別に早押しをやってる人がキワモノだ、という意味じゃないですよ)。その流れにおいては、トップスピードの早押し勝負でガンガン誤答させ、正解の部分だけを見せる、というのも積極的な演出としてアリなんじゃないか。
- 一見すると、クイズ番組が再び衰退し始めたこの2002年上期だが、後世に残りうるクイズが誕生している。そう、「ヘキサゴン」だ。大げさでも何でもなく、日本のクイズ番組は「ヘキサゴン以前」と「ヘキサゴン以後」で分けられることになるかも知れないと思っている。
- 初めてBSデジタルの試験放送的な枠で見た時に、私は度肝を抜かれた。私が展開しているBSQでは「複数参加で早押し無し」「不正解によってゲームが展開」「正解しなくても勝てる」という要素を盛り込んでいるのだが、「ヘキサゴン」はこの3つが根幹をなしていた。誰が考えたのか知らないが、同じようなことを考えている人がいるものだ、と驚いた。
- 「視聴者」としては凄く面白かったのだが、「作り手」としては悔しかった。BSQとか言っていながら、このルールを思いつかなかった自分に腹が立った。で、気づいたら、この番組に欠けていた「テンポの良さ」を含めた新しいBSQを必死に考えていた。こんな刺激を与えてくれた存在は今までになかった。
- 「ヘキサゴン」の評価は高かったようで、その後すぐに深夜枠でレギュラー放送され、私も出張先の山形で見る機会があった(宮城では放送していない、ちなみに宮城はろくな深夜番組をネットしていない)。そこでさらに驚いた。「正解によってもゲームが展開する」ルール改正、そして編集でテンポが抜群に良くなっていた。100点満点で120点と評価できる番組になっていたのだ。
- 今、かなり忙しいこの時期に「定例会見」を書いているのは、このことを記しておきたかったからだ。なぜなら、明日「ヘキサゴン」がゴールデンに進出する(島田紳助司会で2時間SP)。おそらく、ここで今までの良さ(特にテンポの部分)が崩壊してしまうのではないか、と危惧しているのである。今までの「ヘキサゴン」の良いところを踏襲していけば、テンポ良くクイズを見せる時代、言いかえればクイズ自体が力を持つ時代の到来は、そう遠くないと思うのだ。
(以下、10月26日追記)
- 「ヘキサゴン」のスペシャル、録画に失敗して見られなかった。残念。でも、番組自体は深夜で継続し、10月からは宮城でも放送されるようになって嬉しい限り。早速、深夜版は楽しんで見た。
- 言い忘れてたけど、問題のセンスも良いと思ってます。
- 「常識の時間」はテンポ、ルール、センス全てダメェ〜(立川談志風に)。そもそも「クイズ」に「常識」というキーワードを持ち込まれるのが大嫌い。
- という話を、佐々木君宛てのメールに書いた。補足しておくが、これは、昔よく言われてた「クイズは一般非常識ですから」というスタンスに立っているわけではない。
- 私は根本的に「常識」(と、その裏返しとしての「非常識」)という概念が大嫌いなのだ。それこそ「伝説の教師」の松本人志のように、「常識」という言葉に敏感に反応して「その常識て、誰が決めたんや」と言いたくなってしまう。
- アメリカの大統領を知っていることは「常識」じゃないし、知らないことが「非常識」なわけでもない。そういう訳の分からん概念を、私の大好きな「クイズ」に持ちこまないでくれ、というのが真意です。
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