第24回・・・「ヌーベル・クイジーヌ・エピソード1」
(その3)


ちょっと勉強すれば間違いなく勝てる。そんな気持ちが、僕をクイズにのめり込ませた。それまで漠然と見ていた「アタック25」をビデオに保存し、結果をノートに書きとめ、「トリビアル・パスート」の答えられない問題をワープロに打ち込むようになった。自作の問題を作るようになったのも、この辺りからだった。

友達とのクイズもさらに加熱。勉強会をして「FNS」の予選を一緒に受けにいったり、誰かが買った「クイズは創造力」の問題を教室で出し合ったり(余談だが、この本を僕は買わなかった。ある年の「ウルトラクイズ」のチャンピオンが本を出す、ということに当時の僕は物凄く違和感を抱いていたのである)。
極めつけは高2の修学旅行。まず行きの新幹線で僕が出題するタイムレース(もちろん停車アナウンスから実際に停車するまではポイントが2倍!)、宿の風呂では「高校生クイズ」でもらったライオンの試供品のシャンプーを使い、部屋のテレビを見て「このルールじゃ、大石さんか能勢さんが落ちちゃう!」と叫び・・・と、これが僕の京都・奈良の思い出なのである。

こんな、とても「普通の高校生活を送ってました」とは言えない日々の中で、クイズへの自信は深まるばかりだった。TVの予選に行っても緊張するどころか、寄ってくるミーハー(思いっきり同年代)を「邪魔だ、ガキ共め」と思いながらあしらったり(これには、友達にも迷惑がかかっているという理由もあったが)、センスの無い問題を出し合っているセンスの無いクイズ研究会の学生(思いっきり年上)を見て「そんなんじゃ勝てないって。・・・だけど、クイ研でも何でもないオレに負けるこの連中の存在意義ってあるのかねぇ」などと考えたりしていた。
今振り返ると恥ずかしいし、大変申し訳無い話だが、当時の僕はまさに「生意気ざかり、春のフジテレビ」だったのだ(なんのこっちゃ)。

だが単に生意気なだけでなく、結果が伴っていた。「FNS」では、予選とフジテレビ入口での「一人必答クイズ」を通過し、TBSの「史上最強のクイズ王決定戦」でも筆記予選は通過した。要するに、必ず「早押しクイズ」の段階までは駒を進めていたのである。
思えばその頃が、最も「早押しクイズをしたい」という気持ちが強かった時期だった。TVの早押しクイズ番組が減り、クイズ本を除いては新しい問題に触れられなかった頃(さすがに友達も自作問題は作らなかった)、本物の早押し機の前で沢山の新作問題に挑戦したいという欲求が僕の力の源になっていたように思う。
「ハングリー精神」という言葉は、僕の「嫌いなフレーズ・トップテン」に常に入るものだが、そう呼ぶにふさわしい状況が整っていたのは間違いない。

そんなわけで確かに「クイズ」には熱く燃えていたが、クイズを取り巻く環境には依然として冷静な目を向け続けていた。ファンレター的なものにはほとんど返事を書かなかった。一過性のものに反応するつもりは無かった。
「クイズ大会」の誘いにも曖昧な返事をしていた。友達との遊びとしてのクイズと、不特定多数との競い合いを意識したTVでのクイズの両方を堪能していた僕にとって、「クイズ大会」はその間に位置する極めて中途半端な存在にしか感じられなかった。
そういえば、「FNS」に雑誌の取材が来ていたことがあった。テーマは「クイズ研究会」らしかった。他の挑戦者がクイ研の活動やクイズ番組の分析を嬉々として話す中で、僕はずっと黙っていた。そして、「この番組もそろそろピークを過ぎたかな」と感じた。マニアックな人間がポピュラーな人間を追い出して行くのは、どこの世界でも一緒だろう。
また、自分が「常連」になっていくと、他の「常連」の人がクイズ以外の部分でどのように変化していったかを観察したり、話しを聞いたりしていた。そして自分の中に、ある絶対的な価値観が生まれていったのである。

高校2年の終わり、気がつくと僕は「FNS」に4回連続出場し、「史上最強」でも3度目の挑戦で予選を突破、本選での3択で、通過まであと1問という所にまで達していた。「優勝」の2文字がいよいよ目の前に近づいてきた。

しかし次の1年間、僕は一切クイズ番組の予選に参加しなかった。

(つづく)

 

 

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