その5 テーマ「ドライブ」

解答他 

Q1.リヤドは車がないと生活できない街。ということで、私も下の写真の車で買い物に出かけます。さて、私の車の車種は何?
A1.カローラ


●2002年モデルだが、新車で購入。価格は約150万円だから、日本とそんなに変わらないのかな。
●サウジでも日本の車や電化製品は至る所で目にするし、評価は当然高い。あらためて「TOYOTA」や「SONY」の偉大さを感じる次第。

 

Q2.交差点に出ました。信号は日本と同じ「赤・黄・青」ですが、信号機が日本と違い交差点の手前にあります。先頭に停まってしまったり、光がまぶしい時には非常に信号機が見にくいのですが、全くそれを気にする必要はありません。なぜでしょう?
A2.信号が青に変わった瞬間、後ろの車がクラクションを鳴らすから。

●とにかく、サウジ人の運転には「マナー」の文字は無い。非常に乱暴である。
●そんなわけで、答のような現象が起きる。当初はクラクションを聞くのはいい気分ではなかったが、今ではこれも一種の「親切心」だと思えるようになった。

 

Q3.主要な道路は4車線が当たり前。そして皆、飛ばす飛ばす。とても写真を撮れる状況ではありません。さて、問題。私の見る限り、そんな街の道路に「落ちている」もののナンバー1は何でしょう?(ヒント:高速道路の方が、より多く落ちてる気がしますね。)
A3.バースト(破裂)したタイヤ

●そりゃ、この暑さの中で、ひどいのになると200キロ近いスピードで飛ばしてるわけですからタイヤにかかる負担は相当なもんです。世界一タイヤにとって過酷な国と言っても過言ではないでしょう。
 

Q4.私は途中でよくここに立ち寄ります。これは、ドライブスルー型のどんな施設?
A4.銀行(ATM


●買い物前にお金を下ろすのに便利。
●また、ご主人が帰宅前にお金を下ろして奥さんに渡すというケースもある。なぜなら、女性は車の運転を禁じられているから。

 

Q5.ようやく目的地の大型スーパーに到着、と思ったら休みでした・・・。気を取り直して最後の問題。私がこうした店に行く最大の目的はもちろん買い物ですが、もう1つ別な目的があります。それは、日本では別な場所でしてもらうのが(自分でしない場合)一般的なことなのですが、その目的とは一体何でしょうか?
A5.洗車

●砂ぼこりで車は結構汚れる。で、スーパーなどの駐車場に汚れた車を停めると、どこからともなく外国人労働者が寄ってきて「洗車をしないか」と言ってくる。値段は10リヤル(約320円)が相場。結構きれいにしてくれるので、満足している。


フリートーク

●「『笑点』の座布団のシステムは、『アップダウンクイズ』を真似たものである」「へぇ〜(と言いながら机を叩く)」・・・こちらに来る直前、サークルの先輩方に開いて頂いた送別会の席はこんな感じで盛り上がっていた。
●その帰り、ある先輩と電車の中でしばらくクイズに関する話をした。酒の勢いもあり、普段以上に攻撃的な発言をしてしまったが(すいません)、「好奇心はみんなが持ってるから、クイズに対する需要はあると思う」という趣旨の先輩の発言に対しては「そうですね」と相槌を打つことしかできなかった。
●納得していたのではない、私はずっとそうした考えに疑問を持っていた。だが、それを説明できるほどの整理が頭の中でついていなかったのである。

●まず「好奇心はみんなが持っているものなのか」ということが、そもそもの疑問であった。自分に必要のあることさえ頭に入れていれば十分に生きていける時代。他人の領域には恐ろしいまでに無関心な時代。そんな時代に「好奇心」は残っているのかという疑問である。
●しかし、これは正しくなかった。なにせ「トリビアの泉」が視聴率20%を超えているというのだから。「ムダ知識」と銘打った情報に関心を寄せ、知って喜び、それを他人と共有して楽しむ層が、まだまだたくさんいるのである。

●しかし、これで全ての疑問が解消されたわけではない。では「クイズは(確実に存在することがわかった)『好奇心需要』に応えているものになっているだろうか」という疑問である。今の私は、この疑問にはっきり「NO」と答えることができる。
●まず、「トリビアの泉」と一般的なクイズ形式を比較してみよう。「○×クイズ」はネタにできる範囲が狭く、テンポが悪く、「へぇ〜」と思わせようとすると答えが読まれてしまう。「早押しクイズ」はあくまで「知っている」ことが前提であり、知らない人へのフォローはほとんど無い。
●そもそもクイズの目的は「知る」ことではなく、「(知っていることを用いて)戦う」ことにある。クイズ番組に関して言えば、出場者と視聴者の「擬似勝負」である、と私はかつて述べた。
●この「(知ってることを用いて)戦う」「擬似勝負」という意識に関しては、時代の流れの影響で、年々薄れているのではないかと思う。好奇心は「知る」ことで十分に満たされる。それを用いて戦う気はなく、それを用いて戦っている人達にも関心は無い。
●クイズ自体による「戦い」を前面に出したクイズ番組が次々消えて行き、心理的な駆け引きといった別の「戦い」を「見て楽しむ」クイズ番組が残っているのはそのためではないか。

●まとめると、「好奇心はみんなが持ってるから、クイズに対する需要はあると思う」という発言に対する今の私の答えは、
 1.好奇心を満たす(知る)ことは、クイズをする(戦う)ことにつながるものではない。
 2.そもそもクイズは好奇心を十分に満たすものになってもいない
となる。
●現状において、クイズに興味を持ってもらおうとする試みの大半は、クイズ自体による「戦い」の部分に主眼を置いたものになっているように思う。これは、今現在クイズに熱中している人の多くがクイズ番組などでの「戦い」の要素に魅せられて、その後クイズに出る知識を詰め込んできたというパターンだからであろう。
●しかし「戦いたい」と考えているのはごく一部であり、それでは好奇心を持つ層を取り込むことはできない。それで良いというのであれば構わないが、それで良くないのなら、むしろ好奇心を十分に満たすようなクイズを模索する方が近道なのではないか。

●「トリビア」は決して「パスート(追究)」するものではなかった。しかし新たなクイズのパターンには、まだまだ追究の余地がある。少なくともセンスのある人間には、それを行う資格がある。

●「断崖絶壁の上にバリアフリーの家を建てて、『来て下さい』って言ってるように見える。」送別会の帰りの電車の中で私が言って、先輩に妙に納得された言葉である。

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