第3回・・・インターネットでのクイズについて


「クイズは広げていくものである」

と、今回はいきなり持論から。問題はもちろん、形式・企画にも規定がないのが、クイズという遊びの面白さだ。特に大学時代の私は、「クイズ王」番組亡き後、テレビにとらわれずクイズをいかに広げていくかに力を注いでいた。身の回りのあらゆるものを、クイズの問題に、企画に活用できないものかと常に思っていた。

その集大成が、1995年の「第2回東大(中略)オープン」(以下、東大オープンと表記)だった。前年に購入したパソコンでCDの倍速や逆回しが出来ることを知った私は、それをクイズの中に取り入れた。また、TQCの高性能早押し機の機能をフルに生かした企画を盛り込んだ。他に、問題の性質上必要であれば、絵や図を見せる形式を用い、「多数決で正解を決める」という今までになかったクイズを試した(後に「マジカル」で似たようなコーナーをやっていたようだ)。もちろん、全てが私の案というわけではなく、当時のTQCの3・4年の話し合いの中で決まっていったものであった。皆、クイズをどのように面白くするか、どのように広げるかを必死に考えていた。

その頃の私は連盟委員もやっていた。東大オープンほど思い切った「実験」はできないにせよ、テレビ亡き時代に最も影響を与えうる大会としての「マンオブ」を、ただの「クイズオタク決定戦」ではなく「クイズの可能性」を示すものにしたいと私は考えていた。しかし、それはあまり実現しなかった。他の連盟委員の考え、というよりも、当時のクイズサークル界の大きな流れはすでに、前者を選択していたのだ。

東大オープン、マンオブは共に、「面白い」という評価を受ける一方、非難も多かった。特にマンオブでは、私が大幅に譲歩した中で残した「音系の問題」が槍玉に挙げられた。「あんなのクイズじゃない」呼ばわりされたのを今も忘れてはいない。すでに「オープン」とは名ばかりの「クローズ」した大会が乱立し、クイズオタクはその「頂点」とやらに立つべく「ネタ本」を暗記していった。問題の形式も、内容も、読み方も、オタクにしか分からないルールの元で定められていった。そして私は、2度と彼らに対して自分の問題や企画を披露するオープンはしないと決めた。いや、できないと悟ったのだ。

96年、就職活動と卒論でサークル内での活動もあまりできなくなった大学最後の年、学内でインターネットをするようになった。クイズ関係のページはまだほとんど無かったが、何となく「クイズを広げるもの」のような印象を持ちつつ、97年3月に無事卒業。インターネットからは離れてしまった。

パソコンを買い換え、自宅でインターネットを見るようになったのは、98年の9月だった。本格的に使ってみると、それは、かつての私の印象を遥かに超える「クイズを広げる」ツールだった。今まで、発想のみで答が見つけられなかった問題、文中での定義付けが難しくお蔵入りになっていた問題が、「検索機能」を用いることで次々と形になっていった。おりしも「ウルトラ」が復活し、サークルの先輩が予選を通過していた。私は久々に本格的にクイズを作り始めた。

クイズ関係者のホームページも、知らぬ間に大量に作られていた。当初はあちこち覗いていたが、すぐに飽き、今も見ているものは数えるほどしかない。「クイズサークル」や「クイズマニア」、「クイズオタク」のページは多いが、「クイズ」のページがほとんどないからである。ネット上でも「クローズ」しているページがほとんどなのだ。

インターネットを始めてすぐ、私はインターネットでの問題披露を思いついた。オープンよりも「オープン」な場を見つけたのである。そしてただ問題を載せるだけではなく、「インターネットを使って、どのようにクイズを広げるか」を考えた。ネックはホームページ作成の技術だったが、幸いなことに、素人にも簡単に作れる時代になっていたようだ。構想約5ヶ月、99年3月にこのページをOPENさせ、現在に至るというわけである。「リンク」という便利な機能を生かし、文字のスクロールや表作成といった機能を生かしたクイズ作りをしている。しかし、まだまだ広がりようはある。今後は音声も取り入れてみたい(「イントロ」は大好きだが著作権関係が怖い)し、ボーナスが出たらデジカメを買って、もっと面白いクイズを作りたいと思っている。

現在のところ、クイズに関しては好意的な評価を頂いている。実は「こんなのクイズじゃない」呼ばわりされるのは覚悟していたので、驚いている。新しい、まっとうな世代が台頭してきたということだろうか。もし、彼らに「クイズを広げる」という意識があるのなら、大変に期待が持てる。そして、今後も彼らに刺激を与えるページを作り続けたいと思う。

 

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